冷たい雨の日の、水を巡る話です。
9月の中旬、山登りの好きな僕はかねてより念願であった尾瀬行きを決行しました。子供の頃から聞いてきた「夏の思い出」
はるかな尾瀬~というフレーズはずっと胸のうちにあった憧れでした。
入口は栃木県側、奥鬼怒という秘境の温泉街からの出発です。
奥鬼怒一帯は平家の落人集落と言われ、さまざまな伝説が残っていました。その山頂付近にある湿原には大蛇が棲み、高山植物を手折ると襲われるというのです。その大蛇を操るのは美しい平家のお姫様。
そんな昔の伝承など気にも留めずに早朝4時の薄暗い中を出発。もちろん、雨の早朝に山に行く人など他にはいません。黙々と、ただ足元だけを見て歩を進めました。
1時間ほど歩いたでしょうか?下ばかり見ていた僕の視線の先に青い合羽の両足が入ってきました。まさか、こんな天気のこんな時間に人?足があるから幽霊でないことは確か。
「おはようございます」と言うと
「おはようございます」と答えるから間違いなく生きている人間でしょう。しかも女性らしい。
「もうお帰りなのですか?」
そう聞くと
「ええ、夕べ山頂に泊まって今日は尾瀬に向かおうと思っていたのですが、この雨ですし・・・・・・」
「ああ、そうだったのですか。僕はこれから尾瀬へ向かうところです」
「私も水があれば行きたいのですが、あいにく水が尽きてしまいまして諦めて帰るところです」
「せっかくいらしたのに勿体ない。水でしたら僕はたっぷり持っています。良かったらご一緒しませんか?」
「ああ、何という幸運!有難うございます」
それから、ぼくは彼女と共に歩を進めることになりました。
昨日の疲れが残っていたのか彼女の歩みは思いのほか遅く、僕はたびたび足元の高山植物を観察するふりをして立ち止まらざるを得ませんでした。
足取りの遅い彼女の歩みを待っているとき、岩陰に銀竜草を見つけました。雨が降っているのに乾いている様子。すでに朽ちつつあったのです。僕は自然のことなので手を出すことを憚りましたが、ほんの少しだけ水を滴らせてみました。
後ろから彼女の「ありがとう」
という声が聞こえました。
たまたま、そう言ったにすぎないとは思います。きっと銀竜草に水を遣ったことに対する礼ではなく、待ってくれていることに対する感謝の言葉だったのでしょう。
銀竜草は白銀の、日影に咲くキノコのような花。決して大声でアピールせず、黙って咲いてます。
山頂付近の湿原にたどり着いたときには雨も止んでいました。そこから尾瀬を目指し、ぼくらは一夜を共にしました。
彼女は今、僕の妻になっています。ぼくらは北海道に住み、なぜか庭に銀竜草が咲いてます。そして、ときどき蛇が現れます。